ジョージ・ジェンセンの軌跡 ー 天才銀細工師の人生
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ジョージ・ジェンセン(Georg Jensen 以下ジェンセン)は、デンマークの銀細工師であり、ジョージ・ジェンセン社には独自のデザインを手がけるアーティストや職人が多く在籍しています。
そのため、「ジョージ・ジェンセン」と聞いて、最高品質の銀製品ブランドを連想する方も多いのではないでしょうか。
本記事では、ジェンセンの生い立ちや人々との関係性、そして代表的な作品について詳しく解説します。
ジェンセンは1866年8月31日に、8人兄弟の7番目としてデンマークのラッドヴァ(Radvaad)で生まれました。
ラッドヴァはコペンハーゲンの北に位置する場所で、自然豊かな田園地帯に囲まれています。
ジェンセンの作品には自然をテーマにしたものが多く、幼少期に育ったこの場所が大いに影響を与えたことは間違いないでしょう。
ラッドヴァの風景
ジェンセンの父親はラッドヴァのナイフ工場で研磨工として働きました。母方の祖父は鍵の修理屋さんでした。(ジェンセンは手先が器用な家系に生まれたのだろうと思われます)。
彼は幼少期から父親と一緒に工場で働き、ほとんど学校に通うことはありませんでした。工場では常に何かを作り出しており、両親は彼の芸術的な才能を認めていました。
ジェンセンが14歳の時、家族はコペンハーゲンに引っ越しました。両親はジェンセンを全面的に応援しており、この引っ越しは、ジェンセンが金細工師の見習いとなるために、両親が決断したものでした。
当時1890年ごろ、見習いは長時間働き、さらに日曜日には技術学校に通わなければなりませんでした。
彼は限られた自由時間を粘土模型の制作に費やしていました。この頃の彼の目標は彫刻家になることだったようです。
最終的にジェンセンは、コペンハーゲンの王立美術アカデミーに彫刻学生として入学します。
在学中、彼の作品の一つ「収穫機」(The Harvester) が、王立アカデミーで開催された権威ある美術展であるシャルロッテンボーア (Charlottenborg) 年次展覧会に出品されました。
ジェンセンは彫刻家としては成功しませんでしたが、展覧会で他の作品や優れたアーティストたちと出会う経験が、後の銀細工師としての仕事に大きな影響を与えたことでしょう。
展覧会が開催されたシャルロッテンボーア宮殿

1891年、ジェンセンはマリー・クリスティアーネ・アントワネット・ヴルフ(Marie Christiane Antoinette Wulff)と結婚し、二人の子供に恵まれます。
しかし、ジェンセンは彫刻家として生計を立てることができなかったため、友人の画家クリスチャン・ヨアキム・ピーターセン(Christian Joachim Petersen)と陶器製造事業を始めます。
1897年、妻アントワネットが腎臓病で突然亡くなり、ジェンセンには二人の幼い息子、ヴィダー(Vidar)とヨルゲン(Jorgen)が残されることになりました。
妻の死に加え、ジェンセンはお金も仕事もなかったため、この時期は非常に辛いものでした。
さらに、一度は経験していたシャルロッテンボーア展覧会への出展も拒否されてしまいました。
この暗黒期ともいえる時期に、ジェンセンにとって、長く続く重要な関係が始まりました。
シャルロッテンボーア展覧会は伝統を重んじる美術展でしたが、この伝統主義とは正反対の美術展「デン・フリー・ウダスティリング」(den Frie Udstilling)(自由展の意味)を創設したヨハン・ローデ(Johan Rohde)が、ジェンセンにこの自由展への出品の誘いをしたのです。
ヨハン・ローデは、画家、デザイナー、彫刻家、作家、建築家など、多彩な才能を持つ人物でした。
正直なところ、陶器事業はあまり儲かるものではありませんでしたが、自由展の出展のおかげもありジェンセンとピーターセンは「ジャーの上のメイド」(The Maid on the Jar)という作品を1900年のパリ万博デンマーク館に展示することができました。
この作品はデンマーク国内外で高く評価され、事実、万博での販売も好調でした。
パリで成功を収めたジェンセンは、デンマーク・アカデミーから旅行助成金を受け取り、2年間フランスとイタリアの芸術の中心地を巡ることができました。
この旅行で彼は、美と実用性が融合するアール・ヌーヴォー様式に触れました。実際、ジェンセンの作品にはアール・ヌーヴォーの影響が色濃く表れています。
当時、産業革命によって工業化が進み、安価で大量生産された製品が市場に溢れ、売れるものが価格重視になりつつありました。
アール・ヌーヴォーとの出会いによってジェンセンはこの現実に対抗し、美しさや優れたデザイン、品質を追求する作品を創ろうと決意しました。
海外滞在を通じて、彼は芸術家としての目的を見直し、実用的で美しい作品の制作に身を捧げる決意を固めました。
アール・ヌーヴォーの影響を受けたジェンセンのブローチ
デンマークに戻った彼は、実用性と美しさを兼ね備え、使う人々に喜びを与える日用品を作り始めました。
この取り組みは、やがて彼の生涯の仕事となります。
生計を立てるため、ペデルセンとともにコペンハーゲン北部に小さな工房を設立し、陶芸を再開しました。
しかし、なお売れ行きは芳しくありませんでした。
そんな中、偶然にもアール・ヌーヴォーの信奉者であったデンマークの銀細工師モーエンス・バリン(Mogens Ballin)とともに仕事をする機会を得ました。
当時の作品「アダムとイブ」(Adam and Eve) は、コペンハーゲンの装飾美術館に展示されています。
アダムとイブ
銀細工師であったバリンの影響と困窮を背景に、1904年の春、ジェンセンは独立し、コペンハーゲンの中心部のブレッドガーデ(Bredgade)というエリアに小さな部屋を借り工房を開きました。
実に37歳のとき、彼は銀細工のビジネスを始めたのです。店を訪れる人は多かったようですが、この時まだ売り上げは芳しくありませんでした。
しかし、同年の秋、ジェンセンは銀細工師としては初めてコペンハーゲンの装飾美術館に出展することができます。
この展覧会が転機となり、工房の売り上げは着実に伸びていきました。
実際のところ、時には在庫が底をつき、新しい作品を作るまで「修理のため休業中」の看板を掲げることもあったほどです。
最初の数年間、ジェンセンはほとんどジュエリーしか作りませんでした。カトラリーを作るためには多額の資金が必要だったためです。
ジェンセンは、過去のどのスタイルにも当てはまらない独自のジュエリースタイルを生み出しました。
彼の作品はすべて銀製であり、琥珀、マラカイト、ムーンストーン、オパールなどの石を用いたことが、その特徴となっています。
このときまだジェンセンの作品は中流階級向けのもので、上流階級向けのものではありませんでした。(上流階級は精巧にカッティングされた貴石を求める傾向だったようです。)
彼は指輪、ブローチ、イヤリング、ブレスレット、ネックレスを作り、特に帽子のピンは100個以上制作しました。
作品は自身の生まれ育った故郷とアールヌーヴォーに影響されてか自然界のものを描いたものが多かったようです。
大量生産はせず、作品一つひとつの質を高めることを心がけました。
ジェンセンのアンティークジュエリー
1900年ごろ、芸術家たちは産業革命によって大量生産された商品に装飾芸術が奪われないようにしようとしていました。
彼らは日々の生活が美に囲まれていることが重要だと感じていたためです。そしてジェンセンもその一人でした。
ちなみに、1900年ごろ栄えたフランスのアール・ヌーヴォーはイギリスではアーツ・アンド・クラフツ(Arts and Crafts)、ドイツではユーゲントシュティール(Jugendstil)、デンマークではスコンヴィルケ(skonvirke)と呼ばれています。
ジェンセンの店の創業初期、製作と販売はすべて工房内で行われていました。商品は作業台の引き出しから取り出され、そのまま客の手に渡されていました。
ジェンセンは工房ではゆったりとしたスモックを身にまとい製作し、外出時には大きな黒い広いつばの帽子をかぶり、銀のステッキを携えていました。
寒い日には、ベルベットのスーツの上に厚手のケープを羽織り、ネクタイを締めていました。
昼食は工房近くのカフェで取ることが多く、食後には新聞の余白に小さなスケッチを描いて楽しんでいたようです。
創業初期から、ジェンセンは他のアーティストとのコラボレーションを積極的に行っていました。
その一例が、デンマークのアーティスト、クリスチャン・メル・ハンセン(Christian Møl Hansen)との共同制作による鳩のブローチです。
このモチーフはジェンセンの他のジュエリーにも取り入れられ、現在に至るまで人気のデザインとなっています。
鳩のブローチ
ジュエリーでの成功を受け、彼はカトラリー製作にも挑戦するようになりました。
ジェンセンは、今ではおなじみとなった花をモチーフにしたティーポットを制作し、こちらは装飾美術館に収蔵されました。
このティーポットは、やがて今日では「マグノリア」(Magnolia)として知られるティー/コーヒーサービスの原型となりました。
その頃、ジェンセンはマーレン・ペデルセン(Maren Pedersen)と結婚し、二人の間には子供が生まれました。
1905年、ジェンセンにとって重要なコラボレーションが始まりました。
数年前に自由展での仕事をオファーしていたヨハン・ローデが、銀で再現してほしい食器のモデルを携えてジェンセンのもとを訪れたのです。
ローデは完成した食器を大変気に入りました。ローデはこれからはデザインをジェンセンに提供すると提案します。
1916年、ローデはジェンセンのカトラリーの中で最も有名なシリーズの「ACORN」(どんぐり)をデザインします。
この生涯にわたる共同作業は、1935年まで続き、この年、二人はわずか数か月違いでこの世を去りました。
Acorn
ちなみにローデとジェンセンは対照的な人物だったようです。ローデは控えめで貴族的、読書家で知的、教養があり、慎重かつ几帳面な人物でした。
一方、ジェンセンはロマンチストで教養は乏しいものの、豪放で衝動的な一面を持ち合わせる性格でした。
しかし、二人の間には不思議な共鳴が生まれたのです。
1906年から1907年にかけて、ジェンセンは非常に多忙な日々を送っており、家族はコペンハーゲン郊外から工房に徒歩圏内のアパートに移り住みました。
そして1906年、ジェンセンは初めてカトラリー一式を製作し、これを「コンチネンタル(Continental)」と名付けました。
このシリーズは現在でも人気を誇り、特にサービングピースは高く評価されています。
コンチネンタル
しかし、家庭内では大きな悲しみが訪れました。長年病気がちだったマグネが1907年1月に結核のため40歳で亡くなったのです。
彼女の死後、一家は再びコペンハーゲン郊外のシャルロッテンルンド(Charlottenlund)に引っ越しました。
しかし1907年の春、ジェンセンは恋に落ちました。彼の恋の相手は、牧師の5人の子供のうちの1人、ヨハンネ・ニールセン(Johanne Nielsen)でした。
ジェンセンは、工房で見習いをしていた末の妹を通じてヨハンネと知り合います。1907年、ヨハンネとジェンセンは結婚し、私生活においても新たな章が始まりました。
また、仕事においても大きな変化があり、ブレッドガーデの小さな工房からラグナガーデ(Ragnagade)にある大きな銀細工工場へと事業が成長しました。
1908年までには、スタッフは9人と2人の見習いにまで増えていました。
ジェンセンは協力者を選ぶことが得意だったようで、その中には生涯を共にする者もいれば、工房を去った後に名声を得る者もいました。
ジェンセンの最大の強みは、異なる個性を持つ人々の間に連帯感を生み出し、共通の目標に向かって努力するよう人々を奮い立たせる力があったことです。
銀細工工房には厳格な上下関係はなく、全員が同じ志を持ち、工房の水準と名声を維持するために尽力していました。
ジェンセンには感情的になりやすい一面があり、時には意見の衝突が生じることもありましたが、その怒りは長続きせず、すぐに穏やかな雰囲気が工房に戻るのが常でした。
すべての作品は手作業で作られ、機械の音が職人たちの創造性を損なうことはありませんでした。
銀のコンポート 1935年ごろの作品
1909年、デンマークの美術商カール・ディール(Karl Dyr)は、ベルリンにジョージジェンセンシルバー(Georg Jensen Silver)とロイヤルコペンハーゲン(Royal Copenhagen)の磁器を販売する店舗を開くことをジェンセンに提案しました。
ディールは、北欧の工芸品に対するドイツ人の高い関心をビジネスチャンスと捉え、ジョージジェンセンシルバーを新たな市場拡大の原動力にしようと考えたのです。
その結果、ディールはジェンセンの工房で生産される銀製品の大半を買い取るようになりました。1914年、戦争の影響で店舗は閉鎖されましたが、それまでの間に工房の総生産量の約90%がベルリンで占められるまでになったのです。
また、幸運にも戦争が始まった年にスウェーデンで新たな市場が開かれました。
1914年、ジェンセンはスウェーデンのマルメで大規模な作品コレクションを展示し、それを有名な画商ニルス・ウェンデル(Nils Wendell)が買い取りました。
ウェンデルは、それまで最大の顧客であったカール・ディール(Karl Dyr)を上回る重要な取引先となりました。
生産量の増加に対応するため、ジェンセンは1912年に工房をクニッペルスブロガーデ(Knipepladsbrogård)の広い敷地に移転し、さらにブレッドガーデに新しい小さな販売店を開設しました。
事業は順調に成長し、ジェンセンは新たな人材を必要としていました。そこで、ヨハンネの家族が手伝い始めます。ヨハンネの姉マリアは簿記係として働き、もう一人の姉は販売員となりました。
長兄のスヴェン(Svend)は写真家で、会社の専属カメラマンとして新しいコレクションの撮影を担当しました。
ヨハンネの末弟ハラルド(Harald)はもともと画家を志していましたが、経済的な理由で1909年にジェンセンの工房で見習いの彫金師として働き始めました。
彼の優れた製図の才能はすぐに認められ、職人の作業用の図面を作成するという重要な役割を担うまでになります。
さらに、彼はジェンセンとヨハン・ローデの創造的なアイデアに細部の工夫を加えるなど、デザイン面でも欠かせない存在となりました。
ジェンセンとヨハン・ローデはティーポットのデザインも手がけましたが、それ以外のアイテムは主にハラルドがデザインしました。
彼の作品は、ジェンセン自身が「自分がデザインしたのか、ハラルドがデザインしたのかわからない」と認めるほど、ジェンセンのデザインと完全に融合していました。
1920年代、ハラルドは自身のスタイルを反映させた精巧な「モダン」作品をシルバーで制作し、その中でも特に人気の高いカトラリー「ピラミッド」をデザインします。
1935年、ジェンセンの死去に伴い、ハラルドは芸術的リーダーの役割を引き継ぎました。
1969年に創業60周年を迎えた際、彼はその重要な節目に、ジェンセンの芸術的伝統を守りながら、次世代の才能の発掘と育成にも努めました。
1911年、デンマークの彫刻家グンドルフ・アルバートゥス (Gundorph Albertus) は、まだブレッドゲードにあったジェンセンの銀細工工場で働き始めました。
彼は金細工と銀細工のあらゆる技術を学び、製造工程についての理解を深めました。
工房がクニッペルスブロガーデに移転した際、アルバートゥスは貴重なアドバイザーとしての役割を果たし、後に副所長として品質管理の責任を担うこととなりました。
長年にわたり、彼は工場で生産されるすべての作品を厳密に検査し、厳しい基準を満たしたものだけを世に送り出しました。
1919年には、ヨハンネの妹イング(Inger)と結婚します。アルベルトゥスは、シルバー製「カクタス」(Cactus)やステンレス製「ミトラ」(Mitra)などのデザインを手掛けました。
1907年から1918年は、ジェンセンの人生で最も幸せな時期だったでしょう。事業は順調に成長し、家庭でも満ち足りた日々を送っていました。
1912年にリセ(Lise)、1914年にビリッテ(Birgitte)、1917年にスーレン(Søren)という3人の子供を授かり、家庭は妻ヨハンネの陽気な性格によって明るく照らされました。
1908年から1918年までの10年間は、芸術的にジェンセンの作品のピークであり、彼に世界的な名声をもたらした作品の大半がこの期間に生まれました。
ムーンストーンのブローチ
生産量の驚異的な増加に伴う資金調達が課題となりましたが、ジェンセンは会社の株式を売却して資金を調達し、この問題を解決しました。
1916年には、GEORG JENSEN SILVERSMEDIE A/S(ジョージ・ジェンセン・シルバースミス工房株式会社 以下ジョージ・ジェンセン社)という会社が設立されました。
1917年には、ジョージ・ジェンセン社の熱烈なファンでありコレクターでもあったデンマーク人エンジニアP.A. ペーダーセン(P.A. Pedersen)と、
ヨハンネの長姉マリアの夫であるデンマーク人ソルフ・ミューラー(Solf Møller)の出資を受け、資本は当初の4倍に増資されました。
1918年までに、クニッペルスブロガーデのスタッフは125人にまで増加しましたが、ジェンセンはさらなる拡大を目指し、ラグナガーデ7番地に大規模な銀細工工場を建設しました。
ブレッドガーデの販売店は小規模だったため、ヨハン・ローデが新しい店舗をデザインしました。
その結果、当時コペンハーゲンで最も高級な店のひとつとなりました。
第一次世界大戦が終結した1918年、パリのヴァンドーム広場近くのサントノーレ通りに店舗を開くことが決まり、次の店舗もロンドンでのオープンの計画がありました。
しかし、不運にも、事業の輝かしい成功を享受していたジェンセンの背後には、1918年8月7日にヨーロッパを席巻していたスペイン風邪でヨハンネが亡くなるという悲劇がありました。
悲しみを和らげるため、ジェンセンは仕事に没頭しました。そのため、1919年と1920年が彼の人生で最も忙しい年となりました。
世界経済の繁栄に伴い、生産も拡大しました。ただ、ジェンセンは芸術家であり実業家ではなかったため、1919年にはP.A. ペーダーセンがジョージ・ジェンセン社と小売会社の会長職を引き継ぎ、
ミューラーとウェンデルがジョージ・ジェンセン社の役員に迎えられました。ジェンセンは引き続きジョージ・ジェンセン社の正会員として、芸術的リーダーの役割を担い続けました。
1921年、会社の業績は急激に悪化しました。ヨーロッパ全土で経済危機が発生し、顧客は購入を延期したり、断念したりしたためです。。
そのため、新たな市場開拓が求められました。デンマークのオーデンセ出身でギャラリーのオーナーかつ有能なセールスマンであった
フレデリック・ルニング(Frederik Lunning)が迎え入れられ、彼の方針によりジョージ・ジェンセン社は1921年にロンドンに店舗を開き、1924年にはニューヨークにも進出しました。
ニューヨークでの販売は、当初から驚異的な成功を収めました。ルニングは、アメリカの富裕層向けの展示会で全コレクションを完売させました。
コペンハーゲンに戻ると、P.A. ペーダーセンはジョージ・ジェンセン社の支配的パートナー兼マネージング・ディレクターとなり、ミューラーは小売部門の責任者となりました。
ジェンセンは銀細工工房の芸術的リーダーとして活躍していましたが、会社の予算制約により自身の製作に限界を感じていました。
そのため、1925年に銀細工工房を去り、パリに移住して自分の工房を開くことを決意します。1920年に結婚した4番目の妻アグネス・クリスティアンセン(Agnes Christiansen)と、3度目の結婚で得た3人の子供、さらにアグネスとの間にもうけた娘メッテ(Mette)とともにパリに移住しました。
しかし、家族を養うことができず、パリでの滞在は短期間に終わり、1926年にはコペンハーゲンに戻り、再び銀細工工房の芸術監督の職に就きました。
晩年の10年間(1925〜1935年)、ジェンセンは主にコペンハーゲン郊外のヘルルップ(Hellerup)にある自宅の小さな工房で制作活動を行い、銀細工工房を訪れるのは必要不可欠な時だけでした。
ただそれでも、1925年にはパリ万国博覧会でグランプリを受賞し、1927年には最後の子供イヴ(Eve)をもうけました。
1929年のバルセロナ万国博覧会でも再びグランプリを受賞し、1932年にはイギリス国外では唯一、ゴールドスミス・ホール(Goldsmiths' Hall)に出展した銀細工師となりました。
1935年、ブリュッセルの万国博覧会では再度グランプリを受賞しました。
1935年、ジェンセンは69歳で亡くなり、ヘルルップ墓地に埋葬されました。彼は世界中で追悼され、その名は今も記憶されています。
~終わりに~
ジェンセンは、共に働いたすべてのアーティストや職人に大きな影響を与えました。
特にヨハン・ローデとの関係は、お互いに強い影響を与え合うものでした。
初期のデザインは共に仕事をしたアーティストたちから生まれましたが、これもジェンセンのスタイルの一面だと私は考えています。
ジェンセンのデザインは、彼の死まで変化を遂げ、死後にも変化し続けましたが、初期のスタイルの基本的な特徴は今なお受け継がれています。
今日では、ジェンセンと彼の初期の協力者たちのデザインが、現代のデザイナーの手によって製作されています。
ジェンセンの工房では、デザイナーたちが自由な発想で制作できる環境が大切にされていました。ジョージ・ジェンセン社は、95年間で90人以上のデザイナーを迎え入れ、その中には友人のヨハン・ローデや、家族のハラルド・ニールセン、アルバートゥスといった名だたるデザイナーも含まれています。こうした理念が、ジェンセンの作品に独自の美しさと革新性をもたらし、今日まで多くの人々を魅了し続けているのです。