知られざるジョージ・ジェンセンの一面とは
共有
多くの場合、「ジョージ・ジェンセン」といえば、彼が設立し、その名を冠したジョージ・ジェンセン・シルバースミスを連想するでしょう。
彫刻家、銀細工師、そして職人でもあったジェンセンの「知られざる」一面を知る人は少ないかもしれません。
彫刻家としてのジェンセン
ジェンセンは、当初から銀細工師としての成功を夢見ていたわけではありませんでした。
彼が何よりもなりたかったのは、彫刻家だったのです。
1886年から1887年の冬、彼は最初の彫刻作品として、父の胸像を石膏で制作しました。
この作品は行政当局に評価され、コペンハーゲン美術アカデミーの彫刻科に入学する後押しとなります。
さらに、1889年にはこの胸像がコペンハーゲンで展示され、ジェンセンは若き彫刻家としての第一歩を踏み出しました。
美術アカデミー在学中、作品を多く売ることはできませんでしたが、その才能は認められ、数々の助成金を獲得しました。
そして1892年、卒業とともに正式な彫刻家としての道を歩み始めます。
翌年には、彼の作品 「先史時代の射手」 が金賞を受賞し、高い評価を得ました。
この賞には研究旅行のための助成金も含まれており、旅先で彼は美しい女神像を完成させます。
その作品には「コピー。ナポリ。GJ」と刻まれています。
ジェンセンの彫刻は古典的なスタイルを基盤としながらも、題材にはしばしば家族や友人、そして自然の美しさが反映されていました。
この時期の彼にとって、銀細工はまだ人生の中心ではなく、彫刻こそが彼の芸術的情熱のすべてだったのです。
ジェンセンは銀細工職人へと転向した後も、彫刻家としての夢を捨てることはありませんでした。
1915年には、初期の作品である「収穫人」をもとにした自身初の大作を手がけ、それをヘレルップのガーデン・アレにある自宅の庭に設置しました。
ジェンセン(Georg Jensen)の最初の成功は、1899年にビング&グロンダール社によって制作された戯曲『黄金の箱』の「ファルスマール」を演じる俳優オラフ・ポウルセンの彫刻でした。
ポウルセンは彫刻のために特別なポーズをとることはありませんでしたが、その表情は見事に捉えられています。
ただ彼のデザインのインスピレーションは自然に根ざしており、それは3匹のネズミをモチーフにした灰皿などに表れています。
また、「魔女のピッチャー」のような超自然的なテーマや、人魚といった幻想的なモチーフにも関心を寄せていました。
1898年には、画家ヨアヒム・ピーターセン(Joachim Petersen)と共同で作品を制作するようになります。
ピーターセンは片腕しかなかったため、多くの制作作業をジェンセンが担ったと考えられています。
1899年、彼らはシャルロッテンボーでの展覧会に「壺の上の乙女」という作品を出品しました。
特に、古典的な造形とモダンな表現の融合、そして深い赤や見事な黄緑の釉薬の豊かさが、多くの人々に賞賛されました。
その後、この作品は1900年のパリ万国博覧会に出品され、大きな関心を集めました
その評判を受け、ジェンセンはさらなる作品を送り、注目を浴びることになります。
しかし、数年後にデンマーク装飾美術館で開催された「デンマーク装飾美術」展では、36点の作品を展示したものの、大きな成功にはつながりませんでした。
彼の鮮やかな色使いは「無秩序に並んだ色彩の寄せ集め」と評され、花瓶のデザインは実用的ではないと見なされたのです。
そのため、現在まで残っている作品はごくわずかです。
そして1904年、ジェンセンはついに銀細工を本業とする道を歩み始めました。
銀細工師としての道
ジェンセンは、陶磁器の制作だけでは十分な収入を得られず、成長する家族を養うには厳しい状況でした。
陶磁器は安価なため、販売しても利益が限られていたのです。
そこで彼は、モーゲンス・バリン(Mogens Ballin)の工房で監督として働き、収入を補いました。
バリンの理想は、すべての作品に最高の職人技を施すことでした。
ジェンセンは、シグフリート・ワーグナーやグドムント・ヘンツェといったデザイナーたちとともに制作を行い、バリンのために「アンティーク風の鏡」などのデザインも手がけました。
ジェンセンの最も初期の銀細工デザインとして知られているのは、1899年に制作され、1901年に初めて展示された鋳造銀製のベルト・バックルです。
この作品には、「エデンの園のアダムとイブ」という宗教的なモチーフが描かれており、当時よく見られたテーマでした。
当初、ジェンセンは銀細工師ではなく彫刻家としての意識でデザインしていたため、造形はやや粗削りでした。
しかし、1903年から1904年の冬にかけて、半貴石を取り入れた洗練されたデザインに仕上げるなど、より完成度の高い作品へと改良を重ねていきました。
モーゲンス・バリンで学んだアイデアやコンセプトを持ち帰り、ジェンセンはスケッチやモデリング、アイデアの形成に絶えず取り組みながらデザインカタログを作成しました。
その素晴らしいセンスと芸術的なデザイン、そして最高水準の品質が相まって、ジョージ・ジェンセンは創業間もない頃から、人々の注目を集めることとなりました。
1904年11月、デンマーク装飾美術館で開催された展覧会「Modern Danish Applied Art」において、ジェンセンは5つのティー・サービス、多数のスプーン、鏡、ジュエリーなど計110点を出品しました。
この展覧会で展示された2つの作品が、デンマーク装飾美術館によって購入され展示されることになりました。
この成功を受け、ビジネスは急速に軌道に乗り、ジェンセンは小さな工房を拡大せざるを得なくなり、スタッフを雇い始めました。
わずか5年後の1909年には、工房の従業員は14人に増加していました。
最初はジュエリーを中心に製造していましたが、1905年からはテーブルウェアも発表しました。
ジェンセンの銀細工の名声は瞬く間に世界中に広まり、彼はしばしば建築家アントン・ローゼンと協力し、他のプロジェクトにも取り組むようになりました。
その中でも有名なプロジェクトのひとつが、コペンハーゲンのパレスホテルの設計です。
ローゼンは、食器の全体的なデザインをジョージ・ジェンセンに依頼しました。
このデザインでは当時一般的だったモノグラムが使われました。
食器は非常に美しく作られており、ウェイター長は開店の夜にいくつかのアイテムが「消えた」ことを覚えているほどでした。
その後、ジェンセンは、海運会社「DFDS」の50周年記念のために葉巻箱のセットをデザインしました。
そのうちの1つは国王のために金で鋳造されました。
1920年代、ジェンセンの銀細工工房はかなりの規模に成長していましたが、1924年までにジェンセン本人は会社の経営権を大きく失い、財務上の判断ミスから資金もほとんどなくなりました。
そして、コペンハーゲンを離れ、パリで再出発することを決意します。
当時の主要株主であったペーダー・ペダーセンとの確執もあり、彼は会社への愛着も失っていました。
心機一転、彼は会社から独立し新しい工房を立ち上げます。
ただし、デザインは引き続き提供していました。
1925年4月、ジェンセンは「国際近代装飾美術博覧会」に多くの作品を出展し、大成功を収めます。
この成功をきっかけに、銀細工工房と再び協力することになります。(ただし、この関係も後に急速に悪化していきました。)
この時代、ジェンセンのデザインは新たな方向へと進みました。
初期の装飾は徐々に姿を消し、ジェンセンは機能性を重視する考えに魅了されるようになります。
ジェンセンの銀細工工房においては長年にわたり手仕事中心の作品作りでしたが、時代の流れとともに、すべてを手作業で仕上げるのではなく、型押しなどの技術を取り入れ、生産を効率化するようになりました。
また、ジェンセン自身も、デザインの表面の質感や、光と影の効果に魅了されるようになり、次第にそれらを重視するようになります。
こうしたデザインの多くは、日本の様式やフランスのアール・デコから影響を受けたと考えられ、従来の彼の象徴的なモチーフとは異なるものでした。
彼のデザインは芸術的に高く評価されたものの、コペンハーゲンの工房で生み出された作品に押され、やがて再びパリだけで販売するようになりました。
パリの工房では、わずか5人の職人と1人の経営者を雇い、限られた道具を使って手作業で作品を制作するしかありませんでした。
この工房で、彼は2種類のカトラリーセットをデザインしました。
1つは後に「ヴァイキング」として知られるものとなり、もう1つは製作されなかったものの、ハラルド・ニールセンの「ピラミッド」のデザインに影響を与えたとされています。
しかし、こうした制約があっても、彼の作品には熱心な支持者が生まれ、やがてコペンハーゲンの銀細工工房と競争する存在と見なされるようになりました。
その結果、コペンハーゲンへ戻るよう強く求められ、1926年にパリの工房を閉め、デンマークへ帰国しました。
コペンハーゲンに戻ったジェンセンは、晩年になるとシルバースミス社のもとで自由に活動することが難しくなり、新たなデザインを手がける機会もほとんどなくなりました。
しかし、彼の功績は変わらず高く評価されていました。
1926年には、20世紀で最も影響力のある銀細工師の一人として称えられ、シルバースミス社が創業25周年を迎えた際には、国王から勲章を授与されました。
1932年には、唯一の外国人としてロンドンの金細工師ギルドのホールに招かれ、名誉を受けただけでなく、彼の作品2点が永久収蔵品として購入されました。
その後、シルバースミス社が彼のデザインに関心を示さなくなると、彼は再びヘレルプの実家の地下に小さな工房を構え、制作を続けました。
限られた環境の中で、大学の機械を借りたり、大きな注文に対応するために地元の銀細工職人を雇ったりしながら、最後まで創作を続けました。
彼の作品は、アール・ヌーヴォーの伝統から大きく離れ、ますます機能性を重視する方向へと進んでいきました。
時代を先取りした革新的なボウルや食器類も多く、その代表的なものの一つが、個人の顧客のために制作したワインピッチャーです。
このピッチャーには装飾が一切なく、黒檀の直線的な取っ手が優美な曲線を際立たせており、当時としては驚くほど斬新なデザインでした。
シルバースミス社とジェンセンの関係が修復されることはありませんでした。
彼の死後、その確執は悲しい形で表れ、彼の多くのデザインのスケッチは使用されることなく焼却されてしまいました。
しかし、彼自身は生涯を通じて彫刻家として知られることを望んでおり、その意志を反映するかのように、墓碑銘には「Billedhugger(彫刻家)」と刻まれました。