デンマーク工芸の歴史とジョージ・ジェンセン

ジョージ・ジェンセンのデザインは自然主義的で、彼が愛した都市のひとつであるパリで盛んだったアール・ヌーヴォーから影響を大きく受けています。

また、彼が育った田舎町の風景から受けたインスピレーションも色濃く表れています。

ジェンセンは、半貴石(宝石ほど高価ではないが、美しい色と質感を持つ石)を巧みに取り入れ、銀細工に豊かな彩りと深みをもたらしました。

また、ハンマーや陰影の技法を用いて、作品に独自の躍動感を表現しました。

ジェンセンのデザインの特徴として波状の模様、ぶどうの房などの装飾は、ブローチにとどまらず、ベルトの留め具や首飾り、さらには袖飾りなど、さまざまな形で現れてます。

彼は、封筒の裏側やナプキン、手元にあるどんな紙面にも情熱を注ぎ、自由な発想で絵を描いていました。

1914年までに約483点のデザインを生み出したことは、彼の旺盛な創造力の表れでもあります。

また、ジェンセンは優れた感性を持つ他の作家たちとも頻繁に意見を交わし、特にヨハン・ローデから、初期の段階から大きな影響を受けていました。

ジェンセンは、自らが求める水準に満たない作品を、ためらうことなく却下していました。

すべての作品は、丹念に手作業で製作されていました。

なお、機械による大量生産の時代でも、ジェンセンの工房の多くの作品は最終的に手仕上げで完成されました。

ジェンセンは、機械によるプレス加工も活用していましたが、仕上げの細部や洗練された装飾については、熟練の手作業による技が不可欠だったのです。

デンマークの工芸とデザインの発展

1870年代、ヨーロッパの大国では産業の発展に対する反動が起こり、特にフランスでは「曲線や植物模様を多用した装飾様式(アールヌーヴォー)」が広まっていました。

デンマークはヨーロッパの中でも小さな国であり、当時、フランスのパリやイギリスのロンドンのような文化の中心地が存在しませんでした。

そのため、新しい様式や流行が国民に広まるのが遅れがちでした。

産業の発展も他国に比べて遅れ、職人の世界では、昔ながらの熟練した職人が弟子を育てる仕組み(同業者組合、ギルド)が続いていました。

ただ、1880年代になると、技術の発展によって情報の伝わる速度が飛躍的に向上しました。

これにより、デンマークでは、古くからの熟練した職人の技と、技術の発展による情報の広がりを通じて高まった手作り品への関心が結びつき、独自の文化的発信力を確立することにつながりました。

1830年代、デンマークで作られる製品は、ヨーロッパの他の地域に比べて劣ると考えられていました。

デンマークは農業が中心の国であり、手工芸品や宝飾品の材料を国内で確保することが難しかったためです。

しかし、こうした評価に異を唱える人々が現れました。彼らは過去の伝統的な作品を独自に解釈し、新しい形で表現することに挑戦しました。

この動きが、19世紀後半のデンマーク工芸の発展につながる大きな流れを生み出しました。

この時期、実用的な美術工芸を学ぶための学校が設立され、芸術的な技能を幅広く養成する体制が整い始めました。

また、貴重な美術工芸品を収集・保存し、当時の芸術家たちにインスピレーションを与える役割を持つ美術館も設立されました。

こうした取り組みが積み重なり、デンマークの手工芸品の水準は徐々に向上していったのです。

1880年代の変化

1880年代になると、デンマークの職人たちは厳しい状況に直面しました。

芸術家や批評家は、デンマーク独自の芸術を確立することを求めていましたが、一般の人々や市場は依然として伝統的なデザインやヨーロッパ諸国の模倣品を受け入れていました。

また、工業化が進む中で、大量生産を推し進めようとする動きと、職人の高度な技術を守ろうとする動きの間に対立が生まれました。

デンマークの経済は、農業中心から製造業中心へと急速に変化し、中産階級の人々は可処分所得を増やしていきました。

その一方で、職人の技術を大切にし、新しい芸術を生み出すことの重要性を訴える人々も現れました。

こうした動きを背景に、1887年に「装飾協会」が設立されました。

デンマークのデザインが世界へ

1888年、「大北欧博覧会」において、この装飾協会のメンバーがデンマークの作品を出品しました。

これが、おそらく初めてデンマークのデザインがヨーロッパ諸国に広く紹介された機会となりました。

この時期、ヨーロッパ全体で手工芸品への関心が高まっており、デンマークの芸術家にとって絶好の機会となりました。

1899年、デンマーク美術館(現在のデンマーク・デザイン美術館)は「近代イギリスの応用芸術」という展覧会を開催しました。

この展覧会では、従来のデザインとは異なる、左右対称のデザインや花のモチーフを取り入れた作品が紹介されました。

デンマークの人々はこれに大きな関心を持ち、独自の解釈で新しい作品を生み出そうと大衆意欲が高まりました。

1900年のパリ万国博覧会では、デンマーク美術館がデンマークの作品を展示し、世界に向けてそのデザインを発信しました。

こうした動きが、後のデンマーク・デザインの発展につながっていったのです。

デンマークの工芸と芸術家たちの活躍

この博覧会には、後に有名になる銀細工師 ジョージ・ジェンセンも出席していました。

彼の名前は、1902年の時点でイギリスの美術雑誌『The Studio』に掲載されるほど注目されていました(彼が自身の工房を開くのは1904年ですが、この頃は銀細工職人 モーゲンス・バリン に雇われていました)。

また、この時期に活躍した芸術家の一人に トルヴァルト・ビンデスボル という陶芸家がいます。

彼は、日本美術や新古典主義(古代ギリシャ・ローマの様式を取り入れた芸術)の影響を受けた抽象的な装飾を生み出しました。

ビンデスボルは、花や自然のモチーフを高度に抽象化したデザインを確立し、それまでの美術とは異なる新たな方向性を打ち出しました。

ジョージ・ジェンセンの生涯の友人であり、芸術家でもあったヨハン・ローデもまた、デンマーク工芸の発展に大きく貢献しました。

彼は絵画、家具デザイン、製本、装飾美術の分野で活動し、「フリー・エキシビション」と呼ばれる展覧会を主催し、そこでジョージ・ジェンセンを支援しました。

彼の支援によって、ジェンセンは銀細工師としての活動を本格的に展開することができました。

さらに、ヘンリー・スロット・モラーという芸術家も、装飾美術の分野において独自のアプローチを確立しました。彼はエナメルと色彩を駆使し、装飾芸術に写実的な要素を加えました。

1898年の自由美術展と1900年のパリ万国博覧会に出品された「トロイのヘレンのネックレス」は、彼の最も有名な作品のひとつです。

彼らは、デンマークの工芸の発展に貢献しました。

 

最後に紹介するのは、ジェンセンの雇い主であったモーゲンス・バリンです。

もともと画家として訓練を受けていたバリンは、1899年に自身の工房を開きました。

そこでは手作業を重視するアーツ・アンド・クラフツ運動(19世紀後半に興った、職人技や手仕事の価値を見直す芸術運動)の理念と、「小さな財布でも買えるものを提供する」という考えを貫きました。

彼の工房では金や銀も取り扱っていましたが、大半の作品はピューター(すずを主成分とする合金。当時のデンマークでは流行が下火になりつつあった)で作られていました。

バリンの作品は、装飾を控えた簡潔なデザインが特徴で、細部の装飾をほとんど加えないことが多かったようです。

これは、一つの作品にかかる作業時間を短縮し、価格を手頃に抑えるためだったと考えられますが、同時に、ビンデスボルの影響を受けた装飾も見られました。

しかし、バリンの作品は「何千もの家庭の日用品がより良いものになった」と評価される作品もあった一方で、多くの質の劣る作品も展示されていました。

 

ジョージ・ジェンセンは、いろいろな芸術家の影響を受けながらも、独自の作風を確立していきました。

アート・アンド・デザイン美術館で開催された『近代デンマーク応用美術展』に参加したとき、評論家のエミール・ハノーファーは彼の作品を高く評価しました。

ハノーファーのコメントは、単に個性を讃えるだけでなく、様々な影響をうまくまとめ、理解しやすい作品に仕上げた彼の技量を評価するものでした。

ジェンセンは、高い品質と細部へのこだわりを持ちながら、一般の人々にも手に届く価格で作品を提供し、「庶民のための芸術作品とはどうあるべきか」という問いに答えを示しているのです。

さらに、後日ハノーファーは「ジョージ・ジェンセンは、これまで眠っていた銀の美しさに新しい息吹を吹き込んだ」と述べ、その革新性が再評価されました。

このように、ジョージ・ジェンセンの取り組みは、芸術と実用性を調和させながら、多くの人に美の喜びを届けることに成功しているといえます。

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